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自分が幸福でないものに、他を幸福にする力がある筈がありません。
夏目漱石「行人」(大正元年)
私は幸福な人と一緒にいるのが好きだ。幸福な人、というのはお金持ちだとか社会的地位が高いとかいう意味ではない。自分を受け入れている人、愛している人のことを指す。そういう人は、他人と競争したり、嫉妬したりしない。自分を卑下して、相手に気を遣わせることもない。立場の違いもおおらかに認めている。だから私もリラックスできる。そのままの自分を見せられる。ささやかな夢や、子供っぽい自慢話もこの人には告白できる。
自分を不幸だと感じている人は、常に、自分より不幸な人たちが必要だ。と、いうより、不幸だと見なせる対象が必要だ。「かわいそうねえ」と同情することで自分のプライドを満足させるため、あるいは、お互いの傷をなめあうために「不幸な人々」を探し続ける。私はご機嫌で暮らしているというのに、一方的に「私たちは同じ苦労を共有している」と決め付けられて、閉口したことがある。
繰り返すが、幸福な人というのは、収入や社会的地位とは関係ない。幸福な人はどこにでもいるし、今不幸だと感じている人だって、幸福になれるのだ。そのままの自分を愛せるようになったとき、今ここで幸福に包まれていることに気づくだろう。それは周囲にも広がっていく。
(2001.8.13)
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万事に先立って汝自身を尊敬せよ
ピタゴラス
「自分自身を尊敬するってどういうことだろう。誰も自分を尊敬してくれない、それどころか軽んじているような気さえする・・・・。もし自分に周りがあっと驚くような才能や地位、容姿があれば、自分自身を尊敬できるのに」と、ため息をついている人もいるだろう。
でも、私は、自分自身を尊敬することってそうではないと思う。周囲の評価に関係なく、自分自身を信頼する力だ。自分を信頼できない人は、自分を証明するためにいつも他人に頼らなければならない。いつも他人にどうしたらよいか聞き、同時に自分が意見を求めた相手に常に腹をたてる。自信のなさから生まれる過剰反応が根底にあるから、「押し付けられている」と感じてしまう。たとえ賞賛されたとしても、今度はいつそれを失うかと怯える日々がはじまる。
夢中になれること、好きなことを、大切に育てていくには、自分自身への信頼が欠かせない。「理由がわからないけれど惹きつけられる」ということ自体が、その人のかけがえのない可能性を示唆している。しかし、それは自分で気づいてやらないといけないのだ。誰も評価してくれないからと抑え付けてしまうと、今の環境でもできることや、現実的な選択肢さえも見えなくしてしまう。
他人の意見を聞く前に、まず自分の心の声を信頼したい。それができてはじめて、他人の意見に真に耳を傾ける余裕も湧いてくる。
(2001.8.12)
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愛されるより愛するほうがすばらしい
人の幸せを願うというのは、それが相手に伝わるかどうかとは関係なく、願う側を元気にする。私はそれを肌身で感じたことがある。体調が悪くて、昼休みに机の上でうつぶせになっていたときのこと。精神的にも不安定で、イライラや怒りが蓄積していた。何か楽しいことを考えたい、ふと思い出したのは、後輩の女性が結婚するというニュースだった。一緒に仕事をしていたときの彼女の笑顔が目の前に浮かんできた。当時、彼女が個人的な事情で辛い時期を過ごしていたのも知っていた。「本当におめでとう。幸せになれますように」と、机にうつぶせになったまま、私は心の中でつぶやいた。彼女が光に包まれている状態がイメージできた。どれだけそうしていただろう。顔をあげたとき、体がずいぶん軽くなっているのに気づき、私は驚いた。
上の話は、ささやかすぎるエピソードかもしれない。最初は昼休みの小さな気分転換にすぎなかった。それから彼女に特別なことをしたわけでもない。しかし、誰かに向ける暖かい気持ちは、何よりも自分を癒す。「愛されるより愛するほうがすばらしい」という諺は、倫理ではなく、実際的な生活の智慧を語っているように思う。
(2001.8.7)
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どのような未来になるかはわからねど
二人のみに通じる言葉もできぬ
三浦綾子「愛の歌集」
経験や感情を共有することが多くなれば、お互いだけで通じる「言葉」も生まれてくる。言葉の背景に二人の物語がある。あだなのついた道具、符帳になった地名、そして他の人には聞かせられない下らないダジャレ。そういうのを積み重ねていくのは楽しい。
別に恋人や夫婦に限ったことではない。友人や家族、職場の学校の仲間、人が出会うところで、言葉は新しい意味をまとって再生していくのだろう。
日常生活から生まれた言葉は、無骨でちょっとかっこ悪い。文学的表現からは程遠く、論理は破綻している。でも、ときどき「愛」を感じてしまったりするのだ。
(2001.8.3)
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成熟していない愛は
「あなたが必要だから、あなたを愛している」と言う。
成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。
エーリッヒ・フロム(アメリカの精神分析学者)
人が辛い時期を過ごしているとき、そばに居て励まし慰め、心の支えになるのも愛のひとつだと思う。支える人は「誰かの役に立っている、必要とされている実感」を味わうことができる。それは甘美な快感だ。しかしその人が辛い時期を乗り越え、もう支えを必要としないときがくる。力をつけて成長する。そのときに「おめでとう」と祝福し、関係を変えていく、あるいは手放していくのも「愛」のカタチだ。「必要とされている実感」に追い求めると、関係を変えていくタイミングが見えなくなる。
「必要とされている実感が必要だから、あなたを愛している」というだけでは、成熟した関係にたどりつけない。どんな時も、その人の幸福を祈れるような大きな愛は、「必要という名の依存」を超えていく。
(2001.8.2)
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嫉妬したり貪欲になったり怒ったりしたときにでも、その感情を否定せずに認めるようになれば、さっと乗り越えて先に進んでいける。
「小さなことにくよくよするな」リチャード・カールソン
感情というのは心の底からブクブクと湧いてくる泡のようだ。水面に出てしまうとパチンと割れてしまう。それを無理して抑えてしまうと、泡は心の中からいつまでも出て行かない。私は嫉妬や不安にとらわれているときは、自分に思いきり優しくなる。「そうかそうか、やっかんでいるんだ」「怖いんだぁ」と、だだっこをあやすような感じで、その気持ちと一緒にいる。
よくポジティブシンキングと言われるが、私は、否定的な気持ち、イヤな気持ちを感じないふりをすることではないと思う。ホンネを無視して、「あるべき自分」にこだわるのは、無理なダイエットに似ている。どんな感情が湧いてきても、それと上手に付き合っていく柔軟性と自分に対する優しさ。弱い部分も醜い部分も受け入れる。それが「ありのまま」でいることだ。
(2001.8.1)
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人の遭遇というものは、紹介状や何ぞで得られるものではない。
紹介状や何ぞで得られるような遭遇は、
別に或物が土台を造っていたのである。
森鴎外「青年」明治43年〜44年
別に紹介状での出会いがいけないとは思わない。仕事や結婚の縁が紹介からはじまることも多い。付き合いが続くかどうかは、本人同士の相性だ。それさえ納得していれば、ありがたく紹介を受ければいい。
ただ、紹介状に頼りすぎてしまうと、肝心の人を見る目が曇るときがある。仲立ちに入った人に遠慮して、相手を冷静に判断しにくくなる場合もある。さらに利害がからんでくると、身動きが取れなくなる。どんな「出会い方」をするかで、その後の関係も規定されがちだ。紹介の場合は、第三者が関わっているので、縛りがきつい。紹介で「保証された」信頼関係は手っ取り早いが、本当の信頼関係が育つには、ホンネをぶつけあったり、お互いを知る時間が必要だ。結局のところ、人間関係に近道や即効薬はない。それを理解している人が「紹介」を生かせるのだと思う。
(2001.7.23)
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思いつめると食事を取るのも忘れてしまう。
カッカとしてこの道はゆきどまり、とつい思いつめ悲観的になる。
そんなとき「とりあえずお昼にしよか」というのが私は好き。
田辺聖子「星を撒く」
仕事が山積みになっている、アイデアがなかなか浮かばない、急ぎの打ち合わせが突然入った・・・。そんなとき、仕事仲間の間で合言葉があった。「とりあえず、ごはんだ」「そーだそーだ、腹が減っては戦はできぬ」周囲からは「この緊急事態にごはんなんて・・・」と眉をひそめられた時もあったが。人目をはばかって、オフィスの非常階段で食べたことがある、時間がなくて、得意先に向かうタクシーのなかでサンドイッチを頬張ったこともある。でも、そもそも食事を取れないような状況自体が異常なのだ。この状況を乗り切るためには、気分転換と栄養補給である。コンビニのおにぎりひとつでもいいから、おなかに入れる。体が落ちつくと頭も落ちつく。
(2001.7.12)
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粥も旨い。ビスケットも旨い。オートミールも旨い。
人間食事の旨いのは幸福である。
夏目漱石「日記」(明治43年)
この日記の書かれる約一ヶ月前、漱石は病で仮死状態におちいった。胃病でもあったため、長い間食物らしい食物を口に入れることができなかった。
毎日、当たり前のように食べているごはん、でも、体調を崩したとき、たとえそれが小さな口内炎であっても、普通にごはんを味わえることがどんなに幸せなことか気づかされる。どれだけご馳走を目の前に並べられても、それをおいしくいただけるのは、食物を受け入れる身体あってのこと。何を「旨い」と感じるかは、人それぞれだが、自分の持つ「旨さ」の感覚に、もっと自信をもっていい。主観的でいい。頭で考え出すと、身体の反応に鈍感になる。「旨い」と感じること自体が、身体のゴーサインを受け止めている証拠だ。
(2001.7.11)
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