|
自分に誠実でない者は、決して他人に誠実ではあり得ない
夏目漱石「行人」(大正元年〜2年)
自分の気持ちを抑えてまで、人に合わせようとするとどこかで無理がくる。「私さえ我慢すれば・・・」と言いながら、心のなかで少しずつ恨みがたまっていく。自分をごまかしていると、相手の気持ちに対しても鈍感になる。自分も我慢しているのだからという理由で相手に同じことを押し付けてしまう。さらに我慢していることさえ認めたくないと、「それが社会の常識だから」と正論をふりかざしはじめる。
せめて、つらい気持ちや切ない気持ちを感じている自分を認めてあげよう。私はそれが自分に誠実なのだと思う。自分の気持ちを無視していると、相手に誠実なつもりで、いつのまにか窮屈さを感じさせている場合が多いのだ。
(2001.6.12)
引用文のページへ
|
|
|
|
からだのなかにいろいろなものを封じ込めて、頭だけで生きてきた。からだが一生懸命に私に語ろうとしていたことにも気づきもせずに。
病気とは、きっと「自分をもっと大切にしてほしい。自分をもっと愛してあげてほしい。この世に生まれたあなたの命の意味を考えてほしい」という、からだの叫びなのだ。
「戻っておいで私の元気」 岡部明美
岡部明美さんは、36歳の時、脳腫瘍を発病し死に直面した。一命をとりとめたあと、再発防止と後遺症の右手の麻痺を治すためにホリスティック医学を学ぶ。健康を取り戻した後、平成10年以来、がん患者さんをはじめとする慢性病の方々を対象とした“自然治癒力”を高めるワークショップ、ストレスを解消する“心と体のリラクゼーション”等を開催。執筆、講演にも従事している。
「心と身体」の相関関係については、最近一般的に認知されるようになってきた。しかし「不調=心の持ち方が悪い」という考えにこだわりすぎると、「治すにはこういう考え方をするべき」という「ねばならない」が増えてしまって、不自由になっていく。もしかしたらその「ねばならない」という思い込み、弱い自分を認めない頑なさが、病を招いたかもしれないのに。
不調はそんなに悪いこと?四季が移り変わるように体調にも波がある。「病気になるのも健康のうち」「不調な自分を受け入れ慈しむ」という態度が、身体の本来の力を引き出すように思う。
(2001.6.5)
■ LINK 岡部明美「気づきのノート」
引用文のページへ
|
|
|
|
自分を嫌うですって?
もちろん私たちは自分のことを愛していますよ
ダライラマ
ダライラマは、アメリカの科学者に説明されるまで「自己嫌悪」の概念を知らなかった。彼がこの言葉をはじめて聞いたとき、非常に驚き「人が自分を大切にせず、憎むというというのは信じられないこと」だと述べている。私にとっては「自己嫌悪」の概念を知らない方がよほど「驚き」なのだが、純朴すぎる反応に、かえって癒されるような気がした。
ダライラマの発言から「他人を愛するのも、自分を愛するのも同じこと」というメッセージを受け取った。そこに「犠牲的な献身」は存在しない。愛する人の幸福を願うように、自分の幸福を願ってもいいのだ。
(2001.6.1)
引用文のページへ
|
|
|
|
他人をおとしめて得られる優越感などいらない
夏目漱石 友人宛書簡(明治38年)
優越感と劣等感は表裏一体だ。どちらも、他人を基準にして自分の価値を量ろうとする。たとえ優越感にひたったとしても、それはいつ奪われるかもしれないという恐れがついてまわる。
世のなかでは、その恐れを利用して、相手を自分の思い通りにあやつろうとする人もいる。たとえば「飴とムチ」のように、相手を持ち上げ、次はけなして混乱におとしいれる。他人の評価を気にしていると、いつの間にか巻き込まれ、相手の顔色をうかがうようになってしまう。
本当の自信は内側から沸いてくる。人が何を言おうが、自分はこれが好きだ、続けたいと気づいたとき、優越感と劣等感の間を右往左往する心境を超えられる。評価を求めて人にあやつられたり、あやつったりする世界からも自然に抜け出せるのだ。
(2001.5.30)
引用文のページへ
|
|
|
|
「一緒にいて楽しいと思う人間関係だけが、人生の生きがいやで」
田辺聖子「朝ごはんぬき?」
一緒にいて楽しいという人間関係は、とても贅沢なものだ。相性とタイミングが合ったとき、一瞬現れる虹のようだと思う。しかし、その最中は、とくに感謝するわけでもなく、当たり前のように人間関係を使い捨て、「生きるために不可欠な」と思い込んでいる生活の雑事、付き合いを優先する。しかし、数年たって鮮やかに思い出すのは、親しい人たちとの時間だったりするのだ。ともに囲んだ食事のメニューや、一緒にながめた景色も、心のなかに大切に保存されている。それに気づいたとき、私のなかで人間関係の優先順位が変わった。
この世から去るとき、私が思い出すのはきっと楽しかった人間関係だろう。そう思ったら、身近なひとりひとりがとても愛しく見えてきた。
(2001.5.25)
引用文のページへ
|
|
|
|
貪ることを休めよ。まことの友は一人二人あらば足りなん
森鴎外「心頭語」(明治33年〜34年)
人間関係を貪る時、それは不安で寂しい時だ。心のなかの欠落感を埋めようとして、やみくもにつながりを求めてしまう。そういうつながりは、自分を支えてもらおうという期待が先行する。期待のあまり、「わかりあえるはず」という思い込みが強くなる。
欠落感を持ったもの同士の付き合いは、どこか切ない。傷を共有し、結びつきが強い反面、もし片一方がそれを克服したら瓦解しそうな危うさがある。自分の孤独は、結局自分で引き受けるしかないのだろう。その覚悟を決めたとき、人間関係を貪ることから解放される。
最初から、立場が違うと納得したうえで付き合った方が、風通しがよくて長続きする場合もある。どこに接点があるか自分でもよくわからないが仲がいい、そういう付き合いを称してある人が言った。「立場は違っても、波長が合っているのよ、自分の波長に合った人とだけ巡り合える」
(2001.5.23)
引用文のページへ
|
|
|
|
愛は言葉だ
太宰治「創世記」
「愛は言葉じゃない」という方が、一般常識のような気もするが、「言葉の持つ力」をあなどってはいけない。とくにメール空間では、お互いの表情や声が伝わらないから、言葉だけが手がかりになる。メールのさりげない一言に、心なごんだ経験はないだろうか。そのとき、私たちは「愛」を受け取っているのだ。何やら大げさなら、「やさしい気持ち」と言い換えよう。
言葉の贈り物は、お金はかからないし、誰にでもできる。もらいっぱなしでもいいし、お返しをしてもいい。別の人に同じ言葉をプレゼントしてもいい。その気楽さ、自由さをもっと楽しみたいと思う。
(2001.5.21)
引用文のページへ |
|
|
|
指導者を待ってはいけない。自分でしなさい、しかも、一人一人に
マザーテレサ
これと同じような話を、どこかで読んだことがある・・・そう、ビジネス雑誌で経済界の大御所が書いていた、「リーダーを頼るな、自分で動け」と。いかにも朝礼の訓示にふさわしいフレーズだ。
マザーテレサといえば、路上で死にそうになっている人を連れてきて、最期をみとるための施設「死を待つ人々の家」をインド・カルカッタに開設し、ノーベル平和賞を受賞した人物。目の前の貧しい人を救うため、たった一人で活動をはじめた。
誰が発言するかによって、言葉の浸透力というのは全く違ってくるものだ。相手を都合よく動かすために、どれだけ自己啓発的な美辞麗句を並べても、聞き手はシラけてしまうだけ。マザーテレサの言葉は、リーダー格の人間なら、誰でも言いそうな平凡な発言だ。しかし、まっすぐに私に届いた。
(2001.5.19)
■ LINK 「マザーテレサの生涯」
引用文のページへ
|
|
|
|
いずれの道にもわかれをかなしまず
宮本武蔵「独行道」(正保2年 1645)
これがなぜ愛の言葉なのか? と感じた人もいるだろう。別れを悲しむのは自然な感情だ。心ゆくまで悲しめばいいと思う。ただ、この言葉には、人間関係に過剰に執着しない、一種のすがすがしさがある。寂しいから、孤独だからという理由で、終わってしまっている人間関係にしがみつく人がどんなに多いことか。そして「まだ愛しているから」と言う。それって、「愛」じゃなくて「執着」ではないだろうか。
「愛」と「執着」をはっきりと区別するのはむずかしい。私は、「その人の人生から私がいなくなっても、その人が楽しく生きていくことを祝福できるかどうか」を目安にしている。感情の嵐が吹き荒れているとき、この目安は、灯台の光のようだ。
一度手放してこそ、再生する関係がある。また、別れのあとに、新しい出会いが訪れる。別れをそんな風に考えてみると、悲しみも乗り越えられそうだ。
(2001.5.18)
引用文のページへ
|
|
|
|
働きものだと云うので、愛されている事は苦しいことである
林芙美子「放浪記」(昭和5年)
この言葉は独身の女性主人公がつぶやいている。しかし、「○○○だと云うので愛されている事は苦しいことである」というフレーズは、誰でも思い当たる節があるのではないだろうか。たとえば、「良妻賢母だからと云うので、愛されている事は苦しい事である」と言いたい女性もいるだろう。
男性が次のような言葉を吐いたとしてもおかしくない。「よく稼ぐからと云うので、愛されている事は苦しいことである」
子供たちは「いい子だからと云うので、愛されている事は苦しいことである」と感じているかもしれない。「愛される理由」が必要な愛は、取引きの道具だ。何かをすることの引き換えに愛をもらう。
私はかつて、「あの人が私に優しいのは、私が○○○だから」と思い込んでいた時期があった。だからそれを手放すのが怖かった。しかし、手放したところで相手の態度は変わらない。驚いた。どうやら引換券なしでも、愛はもらえるようだ、と言うより、私が機嫌よく生きているだけで、相手はじゅうぶんらしいのだ。
もし、自分の「愛される理由」に苦しさを感じていたら、いちど、考え直してみる機会なのかもしれない。無理をせず、そのままで受け取ってかまわないもの、それが「愛」だと思う。
(2001.5.17)
引用文のページへ 
|
|
Back
Home
|