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運命は神の考えることだ。人間は人間らしく働けばそれで結構である。 運命というのは、あらかじめ決められているのではなく、今の自分の願いや行動が作り出していくのだと思う。運命的な出来事や出会いでも、あとでよく思い返してみると、自分が強く願ったことだったりするものだ。ただ、いくら強く願っても、頑張っても、どうしようもない時期というのがある。そんな時は、目の前のあれこれを誠実にこなしていくに限る。自分に必要な経験や人物だったら、きっといつか出会えるだろう。必要でなければ、出会わないだろう。プロセスを楽しんでいれば、どちらにしても「失敗」はない。そういうとき、人は観念的な「運命」に期待しなくても、「今」を充分いきている。 |
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心の暴力に力はない、 攻撃的な人は、自分の恐怖や不安感を相手に投影して、「敵」を心のなかでつくってしまう。常に周囲を値踏みし、敵か味方か、出来る人間か無能な人間かに分けたがる人は、相手だって同じように自分を見ているのではないかと怪しむものだ。ちょっとした相手の言葉に敏感に反応し、自分を馬鹿にしていると思い込む。私も例外ではない。誰のどんな発言に対して攻撃的になったか、冷静になって振り返ってみると、自分の隠された恐怖や自信のなさに気づく。本当の「敵」は心のなかにあったかと、苦笑いするが、すぐにその反省を忘れて同じようなことを繰り返している。 しかし、自分の心の動きを見つめるようになってからは、怒りからの「回復」が早くなった。後に残らない。傷つけられたとも思わない。また相手の攻撃的な発言の背後にも、私と同じような恐怖や不安があるのだと、何となく感じるようになった。そうすると、ケンカ相手からいきなり親しげに声をかけられたりして、不思議なものである。人は自分の弱さを隠すために攻撃的になるのかもしれない。 |
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一つの国しか知らないことは、どこの国も知らないことと同じである。 私は、海外旅行をしたことがあっても外国に住んだことはない。身内や友人に外国人はいるが、話す言葉は日本語か、カタコトの英語、さらにカタコトの中国語だ。海外滞在歴の長い人が日本について評しはじめれば、何か私の知らない視点がないかと面白がってふんふんと聞く。メディアで「海外から見た日本」という特集があれば、ぼーっと観ている。そこでいつも感じるのは、日本人は、「外からどう見られているか」には異常に敏感だということだ。自らを批判するのも、好きなようだ。まあ、反省するわりには行動が伴わないが。日本人でありながら「これだから日本は、日本人は」と言いたがる人も多い。 でも、その先が見えてこない。「文化の違いやイデオロギーはさておき、あなた個人は、どうしたいと思う?どうしたら、この日本で生きやすくなる?」と聞いても、返事がない。自分を知るためには他者に出会うことが必要だ。異質と出会うことで、自分を確かめられる。同じことが国と国の出会いにも言える。しかし、他国にどう見られているか分析したり、他国の文化を研究しても、「自分は結局どうしたいのか」がないままだと、神経症的に相手の目を気にするか、借り物の視点でしか自国を見ることができなくなってしまう。また、自国を愛しているかいないか、どんな気持ちが背景にあって外国人と出会うかで、彼らから受け取るものも変わってくる。 私は大きなことはよくわからない。興味にしたがって本を読み、たくさんの外国籍の人と出会っても、そこで「日本とは・・・」と言い切れない。そう言い切ってしまうと、本音から遠ざかる。(どこかで聞いたようなことを鵜呑みにして)という声が心のなかでする。自ら求めて話を聞くのが、一番手っ取り早く確実だ。下手に抽象化せず、まとめることをやめて、目の前の人の話に素直に耳を傾けるとき、異質性と同時に、人としての普遍性が伝わってくる。どちらかだけというのは有り得ない。それが私にとってのリアルだ。 |
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白雁は白くなるために、水浴びする必要はありません。 「人間は努力をすれば、向上する」というお題目を唱えながら、ここにない何かを求めて一生懸命勉強したり、仕事をしてきたけれど、どこかおかしいと思って立ち止まったのが数年前だった。なぜ「今のまま」じゃいけないんだろう。何もしないことをしたいと言ってはいけないのか?心の奥から「私は私に帰りたい」という声が湧き上がってきた。 私は、時間に追われる生活を止めた。次に何をしようかと計画を立てることもしなかった。「すぐに退屈をもてあますわよ」「次は何をするんですか?」「急に生活を変えて、キッチンドランカーになるか、怪しげな宗教に走るか、それが心配だ」と、周囲に言われ、私も少々不安だったが。 別に生活は荒れなかった。ひとりの時間が増えたからといって、じたばたすることもなかった。新しい場所で、新しい友人ができた。興味のある場所、人にはどんどん会いに行った。私は「何もしたくない」のではなくて、「自分を証明するために、何かをしなければ」と追い立てられるのが嫌だったのだ。 自分自身で「いる」ために、「何かをする」のは本末転倒だ。何かをするのもやめるのも、自分自身からはじまるのだから。何かをすることに依存することもなく、何もしないことに退屈を感じることもない。ただ豊かな時間が心の中を流れていく。 |
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人間が最古の昔から必要としていることのひとつは、 私は時々自宅への連絡をさぼる。電話の一本も入れておけばすむものを、つい面倒がってしまい、深夜、おそるおそる自宅のドアを開ける。電気はついているのに、相手は私に背を向けて「眠ったふり」をしている。「ごめんなさい」こんなとき、私は小さな子供のようになってしまう。両親に叱られたころと変わらない。懐かしく、甘酸っぱい気持ちになる。 昔はそうではなかった。心配されることをうっとうしく感じていた。人によっては心配を装って自分の恐怖感や倫理観を押し付けていることもあるから。 しかし、いつの間にか、「心配されること」が嫌ではなくなった。結局自分の人生は、自分で決めるしかないし、責任を負うのも自分なのだ。相手の「心配」を受け入れるか受け入れないかを決めるのも自分だ。 そう思うと、「心配してくれること」自体がなんだか嬉しい。少なくとも私に関心を持っていてくれる証拠のような気がする。 |
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恋とか愛情とかいうものは、 「思い込み」や「妄想」だって、そこにないものを見る心の作用だと言えるしなあ・・・と天邪鬼な私は考える。目の前の人を直接見ているつもりでも、自分のフィルターを通している。人は相手にいろいろな想いを投影する。恋はその最たるものではないだろうか・・・・。 自分の想いを投影した相手を愛するという状態は、まさしく夢であり、長くは続かない。あるがままの相手を受け入れる段階が次に来る。これはおそらく一生かかるプロセスになる。そこで関係をリセットするか深めていくかは趣味と相性の問題だとは思うが、私は「夢の後」も面白い。「思い込み」の日々から「発見」の日々へ。そこにないものを見るのではなくて、そこにあるものに気づくのだ。 |
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自己の弱点をさらけ出さずに人から利益は受けられない。 人の眼を気にして、自分の弱点を隠していると、そちらにエネルギーをとられて、相手の気持ちが見えなくなってしまう。相手そのものに関心があるというより、相手の目に映った「自分自身」にこだわっているからだ。弱点があっても怖くない。そう思ったとき、他人の弱点も同じように受け入れられる。そうなると相手も構えなくてすむから楽だ。ふたりの間に双方向のパイプがつながる。 受け取ることと与えることは一対だ。どちらが上というのではない。受け取る人がいるから、人は与えられるのだし、受け取った人は、また誰かに与えたくなる。 自分の弱点を隠すことをやめると、人間関係の壁がなくなり、エネルギーが循環しやすくなる。利益はそれにのって廻っていく。 |
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